神戸女学院中学部・高等学部 国語科
阿部 穣先生
国定 最初に国語力の定義についてお聞きします。先生方は国語の力とはどのようなものとお考えですか。また、国語力を育てるためにどのような授業を展開しているか教えてください。
阿部 今年は地下鉄サリン事件から30年ですが、村上春樹がオウム真理教の信者にインタビューした『約束された場所で(underground2)』のなかで「いい物語は開かれ、どう読むかは読者に任されている。悪い物語はその世界に入ってしまうと抜け出ることができない」と書いています。麻原彰晃が語った物語には答えが一つしかなく、そうした物語にある種の人々が引きつけられてしまったのではないかとありました。また、彼がインタビューしたすべてのオウム真理教信者に、思春期に熱心に小説を読んだかどうかを聞くと、答えはほぼノーでした。物語に対する免疫がなく、取り込まれたのではないかとも書いています。この作品は28年前のものですが、世界が複雑化、不安定化している今の時代も単純で悪しき物語を語る人は出てくるでしょう。それをきちんと見分けられる大人、自分の頭で考えることを放棄しない大人を育てることが教育、特に国語教育に期待されていると思います。
授業では新聞を活用していますが、扱うトピックは安楽死や死刑、生殖医療、遺伝子操作など、生徒が特に関心を示したものを深く探究することが多いです。何が正しいかではなく、何が問題でどのような議論がされているかを知ったうえで自分の考えを文章にまとめます。ネガティブケイパビリティー(不確実性に耐える力)ということばがありますが、そういう力を養うことが国語力を育てるために必要な態度であると考えています。
久下 AIもそうですが、大学入試センター試験時代からその傾向は顕著になっていましたが、大学入試共通テストでは情報をいかに高速に処理するかが求められています。それは有益な技術ではありますが、ただの手段にしかすぎないと思います。仕事が山のように積もってどうにかしないといけないときに、さっと読んで必要な情報をピックアップしてまとめていくといった場面では役立つ技術でしょうが、世の中のことに広く興味を持ち、批判的に考えるということには、直接にはつながっていきません。国語の時間は技術の習得を目的とするのではなく、やはり深く考える時間でありたいと思います。物事を批判的に考える力を持つ、それが国語の力として最終的に求められているところだと思います。テストで点数を取る、早く処理するということではなく、じっくり批判的に物事を考えること、その基礎的な力を身につけること。それが国語の力ではないでしょうか。
わたしの授業では6年間、現代文については基本的に小説しか読みません。古典は通読を目標に授業をしています。いずれもテキストにじっくりと向き合い、考えることを目指した選択です。
松本 国語の教科には、本質とは何かを考える土台があります。国語力はより良く言語化できる力と定義し直すこともできます。より良く言語化するためには実感する必要があります。具体的な課題を通らなければ、本質にはたどり着かないからです。
自分の視野を広げる、変える、実感を持つ。そのために授業では、アラブ文学が専門の京都大学の先生に来てもらい、ガザ地区で起きていることについて話を聞くといった取り組みをしています。ウクライナで戦争が始まった時にもやはり講演をしてもらいました。目の前で戦争が始まっても生徒はどうとらえればいいかわからないわけですが、専門家の話を聞くことでたくさんの感想が出てきます。観念的な頭でっかちではなく、目の前の具体的なことから考えることを常に意識する授業を展開しているところです。
国定 自分で考える、自分で言語化する、自分で判断を下す。そうしたきっかけとして国語を学ぶことは非常に大切です。深く学んで将来に役立ててほしいです。